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クリスチャン・カウンセリング


クリスチャン・カウンセリングは、ノン・クリスチャン・カウンセリングと大きく異なっています。 究極的な目的が全く違っているのです。どのように違っているのか簡単にご説明いたしましょう。
悩んでいる人たちの諸問題に直面させられるとき、人が利己的、自己中心的にいかに深くなり下がり得るかに気づかされます。人の諸問題は人の内なる感情を 掻き乱しますが、苦境にある人が求めるのはこの乱された感情-怒り、不安、罪悪感といった否定的な感情―からの即座の解放です。 それはあたかも、気分さえよくなれば、すべての問題が解決し、解放されると信じているかのようです。
しかし、クリスチャン・カウンセリングの究極的な目的は、カウンセリー (カウンセリングを受ける人)がどのような問題に直面していようと、すべての人たちをキリストに似た者になるように導いてあげることです。
クリスチャン・カウンセラーが助けの手を差し伸べ、苦境にある人たちの重荷を 軽くしてあげようと試みるとき、カウンセリーを聖書的でない目標、すなわち、苦痛を取り除いてあげさえすればよいという目標へと導いていくことの方が むしろ易しいので、それがゆえに、クリスチャン・カウンセラーは、人助けのときのキリスト者の究極的な目標が、苦境にある人を イエス・キリストに似た者になるようにしてあげることであるということを いつも心に留めておかなければならないのです。
もし人の感情に関心を払うあまりこの聖書的な目標を脇に押しやって、人の幸せを 優先にする方向へとそれると、クリスチャン・カウンセリングは世間一般のレベルに なり下がってしまうことになります。 もちろん私たちは、苦境にある人たちに援助の手を差し伸べ、緊張を減らし、重荷を軽くし、乱された感情の抑圧に対処する等々できるかぎりの助けを してあげなければなりませんが、イエス・キリストのようになるための助けをし損ねるという犠牲を払ってまでそうするというわけではないのです。
クリスチャンでない療法士や精神科医やカウンセラーの考えは、ほとんどすべて人道主義的な前提に基づいているので、人間の幸福と福祉を第一優先とみなします。とすれば、そのようなカウンセラーたちにとっての究極的な目標は、人々の気持ちがよくなるように援助することです。
ノン・クリスチャン・カウンセラーの大多数が、A・ラザロスの著書『行動療法とその先』 (マックグロウ・ヒル)に記されている見解「もし権利を施行する過程でだれかを傷つけたりすることがなければ、人間は何でも自分を喜ばせることをし、考え、感じる権利が与えられているのです」を支持し、カウンセリングの大前提としているので、クリスチャンとノン・クリスチャン・カウ ンセリングとでは、目標が違うため個人的な問題へのアプローチの仕方に自ずと、大きな違いが生じてくるのです。
このように、世間のカウンセラーは聖書的な基盤から問題に取り組んでいこうとはしないので、何であれ、自分を幸せにすることになるとカウンセリーが思っていることを達成できるよう助けてあげることを追求するのです。
しかし、クリスチャン・カウンセリングの根拠は聖書、神の言葉にあります。 聖書は、「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。」 (箴言14:12)と語り、人が自分を喜ばせること、気分がよくなること、自我を満たすためにのみ生きるとき、問題解決どころか、取り返しのつかない、霊の死(神からの永遠の別 離)への墓穴を掘ることになると警告しているのです。
それでは、クリスチャン・カウンセリングが推奨する、解放と平安の人生の秘訣を七つのステップを通して探ってみましょう。

有意義な人生へのステップ

  1. その1
  2. その2
  3. その3
  4. その4

その1

私たちの周りには夫、妻の不倫、家庭内暴力、息子、娘の非行、突然の解雇、事業の倒産等々、人生の諸問題に悩み、傷つき、あるいは、心の中で、罪悪感とか虚しさの思いを経験し、そういった重荷からの解放、救いを求めている人たちや霊的な助けを必要としている人たちがたくさんいます。 両肩にしっかり背負い込んでしまった重荷、ストレス、苦難に絶望的になっている人たち、相談する相手もなく、鬱、孤独を感じている人たちが何と多いことでしょう。
いろいろな宗教に救いを求め、どんな信念を持っていようと、またクリスチャンとして主イエス・キリストに献身し、熱心に信仰生活に励んでいようと、このような外からは窺い知れない心の内の闘い、情緒的な傷、心身ともに苦痛な問題から免除されている、問題は皆無という人は一人としていない、といっても過言ではないのです。
しかし、困難から抜け出す道が皆無というわけではありません。
天地万物を創造された唯一真(まこと)の神は人の外側(肉)も、内側(霊、魂)もすべて見通しておられます。悲しいことに、宇宙空間の限られた次元に生き、限られた能力しかない、被造物に過ぎない人の側からは、神を正確に知ることはほとんど不可能なのですが。 でも、たとえ人の肉体の五感を通して知ることはできなくても、全被造物の産みの親なる神がおられるということを信じることは、また、この神が人を産み捨てたのではなく、最後まで面倒を見てくださる、人の親たち以上に一人一人を愛してくださっている神であるという正しい知識を聖書に基づいて得ることは、困難から抜け出す第一歩です。 神と人との直接の関わりの断絶は、人類の父祖アダムが神のご命令に従わないという罪を犯したことによって、神と人がともに住むエデンの園から追い出されたことによって、後に続く全人類への遺産となりました。そもそも人類創造の始めに、罪を刈り取る人生の少しもありがたくない布石が敷かれたのです。
神から離れた人は、生きるために必要なものを自分自身の努力、能力、力によって勝ち取っていかなくてはならなくなりました。人が生きるために必要なものは、食物、住居、所属品など物質的な充足だけではありません。父-子-聖霊との関わりの中に神ご自身おられるのですから、神に似せて造られた人も、当然のように神との縦の関係、他の人たちとの横の関係を求めて生きていくことになります。 神から離れるということは、神に服従することへの反逆で、言い換えれば、自分中心に生きるということです。そのように生きる者たちばかりが集まれば、人間関係の軋轢から今日私たちが直面している様々な問題が生じるのは当然のことなのです。 しかしそれよりも大きなひずみは神と人との断絶から生じる心の内の問題です。人間間の横の関係は外面的な問題でだれの目にも明らかですが、神との縦の関係は心の内の内面的な問題なので、傍からは分からないだけ厄介なのです。

その2

人には存在するために必須な三つの根本的な心理的ニーズ(要求、欲求)があります。
  • 従属(愛されていることの確信)-心の拠りどころ
  • 自己価値(自分の存在に対する評価)-存在の意味
  • 有意(成功、達成感)-人生の目的
のニーズです。
これらはすべて神との正しい関係の中で満たされるものですが、神との断絶のゆえに満たされないと、否定的な感情を伴ったニーズに変わります。 すなわち、従属(心の拠りどころ、安らぎ)は不安に、自己価値は自己否定に、有意は自信喪失・無目的に変わり、安住の場のない心は何とか他の手段でそれを満たそうと、自己中心な足掻き、暗中模索に明け暮れることになります。言うまでもなく、対象は他の人たちに向けられ、自分のニーズを目に見える横の関係で満たそう、すなわち、神ではなく他の人に満たしてもらおうと、収拾のつかない歪められた人間関係の悪循環が展開していくのです。
人の心の問題は、神によってのみ解決されるものであるということは、分かったのですが...
聖書が証ししているように、天地創造に携わられ、聖霊によってこの世にご降誕されたイエス・キリストは、人の目には見えない崇高な神を人の次元から見、理解することができるようにしてくださった唯一の方です。ご自身人間のレベルにまで下られたキリストを通して私たちは見えない神がどのような方であるかを知ることができ、また、人間として人生の喜びも苦しみもすべて体験されたキリストによって、私たちは、人が神の意匠通り、御旨にしたがって生きるためにはどのように歩めばよいのかのお手本を示されたのでした。
罪のために閉ざされてしまったと思われた神との正しい関係に、イエス・キリストを唯一の仲介者として、戻される新しい道がすでに開かれていることを知った今、心の問題と闘っている私たちは、間違いなくこの憂鬱な状態から 脱出できるという確かな希望があることを知らされたのです。
閉ざされた道から再び神との正しい関係に戻されるという、不安な暗闇から明るい光への解放は、『罪の縄目とその結果の死』から『神の御許、永遠の命』に贖われるということで、人の永遠の生死に関わる人生最大の重大事です。 自らの罪を解消するため、宗教行事に明け暮れたり、神のご機嫌取りをしようと目に見える奉仕の業や施しに貢献したりと、この世的な徳を積むことではなく、愛の神が無条件で提供してくださった、キリストによる贖いの道を選ぶこと、すなわち、ただ神にのみすがる道が救いに与るということです。

その3

キリストによる救いに与ることは難しいことですか?
自分の努力、義の行ないによっては自分中心な思い、根深い罪から解放されないことを認め、自らの救いをキリストに全面的に委ねた者は、すなわち、イエスを自分自身の救い主として受け入れた者は、このキリストによる救いに与り、永遠に生きることが確約されているのです。 キリストが人類の罪のために犠牲になってくださったことによって、全人類に救いの道が開かれ、キリストを信じる者に永遠の命が与えられるという約束が福音です。
キリストが歩まれたように歩めばよいのです!
もっとも、これは決して易しい道ではありませんが、そのように歩みたいと心から願う者には必ず主、神の助けがあるので、不可能と思える道も可能になるのです。
キリストが歩まれた道は聖書に記されています。したがって、聖書に記されている「神の言葉」と、キリストの生き方、教え、言動から、有意義な人生へのステップを学ぶことができるのです。これ以外に、私たちが心の問題から解消されて、主にある平安の人生を全うする道はないでしょう。
さらに神は、神が語られ、実証してくださった人生の真理をまず自ら学び、実践し、その素晴らしさを、周りの助けの必要な人(隣人)とともに分かち合っていくことを望んでおられます。 もしあなたがキリストを、自分を罪から解放する「救い主」として受け入れた新生のクリスチャンであるなら、各個人に一度しか与えられないかけがえのない人生を、主を受け入れたことによって如何に有意義に歩んでいるかを回りの人たちに語っていくことができます。 これが、自分のキリストによる救いを証しするということです。
しかし、「この世にあっては悩みがある(あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)とも、「わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14:27)とも、イエス・キリストが言われたように、有意義な人生がイコール、悩みとか困難のない人生、というわけではありません。 キリストご自身の人生がそうであったように、たとえこの世の人たちと同じように、いやそれ以上に苦しいことに直面しても、父なる神と子なる神キリストとの正しい関係にある人はだれでも、その人にとっては、他人の計り知ることのできないかけがえのない最高の人生を送ることができるという約束なのです。
イエスの愛弟子ヨハネも、「私たちは、自分が真理に属するものであることを知り、そして、神の御前に心を安らかにされるのです。」(第一ヨハネ3:19)と語り、イエスを神の御子と信じて告白する者は、神の愛の中に守られているので、この悪に満ちた世にあっても恐れがなく、すでにキリストにあって世に勝っている者であることを教えたのでした。

その4

英国のクリスチャンカウンセラーの第一人者と評されているセルイン・ヒューズは人生の勝利者になるステップを次のように梯子の『七つのこ』にたとえています。人生の危機に直面し、あるいは自分自身、また他人の問題に巻き込まれた者が困難から這い上がるためにはどうしたらよいのか、人生を最高に生きるにはどうしたらよいのかに、セルインは七段の梯子を最後まで上る方法を勧めています。 梯子の「こ」を一つ一つ上っていき、ついに七つの「こ」を上り上げたとき、眼前に開かれている有意義な人生を歩み出すことになるというわけです。
以下、セルイン・ヒューズのクリスチャン・カウンセリングの著書 「だれか助けて!」(フルダ・K・伊藤訳)から要点だけをかいつまんでご紹介します。
クリスチャン・カウンセリングの前提は、神の言葉、聖書を、神の霊感によって記された権威ある書物として、全面的に受け入れることです。 もしあなたがまだ聖書に対して何らかの不信感を抱いているなら、今それらを完全に取り除くことができるよう、主に祈ってください。 さもなければ、御言葉が用いられるときに生じる御臨在の神の力を味わうことはできません。 使徒パウロは次のように語りました。
聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを 受けさせることができるのです。聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。
テモテ第二3:15-17

「だれか、助けて!」から七つのステップ

  1. 神があなたを愛しておられるという事実を受け入れる
  2. 自分の問題に直面し、逃げない
  3. 自分の歩みに対し個人的な責任をとる
  4. あなたを傷つけた人をすべて赦す
  5. 自己憐憫を避ける
  6. 心を鍛練する
  7. あなたに起こるすべての状況を賛美で受け入れる

1. 神があなたを愛しておられるという事実を受け入れる

この事実を受け入れるのが難しいという人は、たとえばマイクのように、「聖書が真理であることは分かっている。神が自分を愛していると聖書が言っていることも紛れもない事実であると分かっている。でも、どういうわけか、自分の人生経験からはそれを現実のこととして受け入れることができない。幼少期に愛を知る経験が一度もなかったので、多分これが、聖書が語り説明しているようには神の愛を認め、分かることができない理由なのではないかと思う。」と言うものです。 そこでセルインは、「マイク、君が今言った言葉、『幼少期に愛を知る経験が一度もなかった』という言葉に、もしかしたらすべての問題の鍵があるかも知れないよ。」とカウンセリングを始め、人間はだれしも人生を依存の状態でスタートし、愛される必要があることをマイクに説明したのでした。
「神の愛」に対する私たちの感じ方は、私たちがどのように両親に愛されたかという経験によって大きく左右されます。もし両親の愛が気紛れで、条件つきであったとしたら、当然神の愛も気紛れで条件つきであろうと予想することになるわけです。両親が溺愛で子どもをやたらと甘やかしたとすれば、神もそのように神の愛で甘やかしてくれるであろうと予想するのは当然です。反対に、両親が厳格で懲罰を科したとすれば、神に対してもそのような風に見るようになり、神の愛に対する感じ方は歪められることになります。神の愛を受け入れることが難しいと感じている人の人格形成には思いのほか、幼少期に愛の経験を剥脱されたということが関わっており、それゆえに心の中に潜在的に恨み、辛みが残ってしまうと、セルインは説明しています。両親との関係も対人関係もすべてがうまくいっていますと明言したマイクでしたが、セルインとのカウンセリングを通して彼は、幼いときの辛い経験がまだ彼自身の心の底で解決されないままに抑圧されていたのに気づかされたのです。マイクの意識のレベルの下から今やっと表面に押し出されてきたのは、長く抑圧されていた彼の両親に対する怒り、恨みの気持ちでした。マイクは、このことを素直に認め、自分の人格の中に他にも根付いてしまっているかもしれないすべての恨み、辛みから今解放されたい、それらを取り除く助けをしてほしいと願ったのでした。
祈りの中で、これらの否定的な感情はひとまとめにキリストの十字架の前に差し出されました。そこでマイクは、そのような怒りの感情が心底にくすぶっていたことを認め、長く抱いてきた怒りに対して主の赦しを請うことによって、初めて心底から解放されたのでした。また、何よりも素晴らしいことに、マイクの実の父に対する否定的な感情が取り除かれたことによって初めて、天上の霊の父である神が、マイクを愛しておられるという聖書が一貫して証ししている事実を受け入れる道が開かれたのです。
神が私たちを愛してくださっているという究極的な証拠は、イエス・キリストの人格の中にあります。キリストが人間として降誕され、罪人として十字架上で死んでくださったということは、神が私たちと同じようにご自分をみなしてくださったという途方もないことなのです。私たち罪深い人間を神ご自身のようにするため、私たちを罪から救うため、神は十字架上で私たちの代わりに苦しみ、死んでくださったのです。十字架上のキリスト、すなわち、『神の自己犠牲』を見上げるとき、神の愛を知ることになるのです。
マイクの例から、もしあなたが、神があなたを愛してくださっているという事実を受け入れることが難しいと思うなら、まず、神に、あなたの中の隠れた否定的感情をすべて取り除いてくださいと祈り求めることです。かつてあなたが対人関係で経験した拒絶という苦々しい傷を癒すことのできる方は、あなたを造ってくださった神をおいて他にいないのです。もしそのような思いが潜在していたとしたら、悔い改め、あなたを傷つけたり、意地悪くした者のだれに対してももはや、何の恨み辛みも抱いていないことを確かなものにしてください。そして、あなたの思いの焦点を真理へと向けていくとき、間違いなく、この世が与えることのできない素晴らしい安らぎ、平安に満たされることでしょう。

2.自分の問題に直面し、逃げない

これは、心理学的健康の最初の法則ともいえるもの、問題があることを認めなさい、ということです。驚くべきことに人間は、問題に直面するのを避けるために、ありとあらゆる方策を編み出すものです。心の奥深くに問題があることを知っているのに、それを否定することにより、むしろ必要以上に悩んでいるクリスチャンは意外と多いものです。問題があってはいけないという間違った考えに支配されているクリスチャンはたくさんいるのです。しかしそのような状態は決して好ましいことではなく、ずばり不健康です。問題があることを認める代わりに抑圧し、無意識の中に押し込めるわけですから。
「無意識の法則」の一つに、問題が知らされないままに秘められることはあり得ない、ということがあるのをご存知ですか。無理やり抑圧された心の葛藤は、身体に病の形をとって、あるいは、間違った行動形態として現れてくることになるのです。
主があなたをそのまま愛し、受け入れてくださっていることに確信を持ち、問題から逃避しないで、勇気をもって直面してください。

3. 自分の歩みに対し個人的な責任をとる

私たちは自分に起こったことに対して責任を問われませんが、起こったことにどのように対応していくかに対して責任を問われる、ということを認識することが大切です。
残念ながら、多くの現代の心理学者たちは、人間はその行動に対しては実際には責任がない、という考えに寄与してきました。あなたのお母さんがあなたを愛さなかったから、あなたは大変なコンプレックスを持つようになってしまったと、彼らは言います。しかし、セルインは言います。過去に起こったことがたとえどのようなことであったとしても、あなたが本気で望んだのであったなら、違った反応、対処をすることができたはずであると。環境や他人を責め続けるかぎり、私たちは、「キリストにあるなら」過去のすべてのしがらみ、すべての間違った態度、すべての否定的な思いから解放されることができるという真理を、見失ってしまっているということなのです。
アンナ・ラッセルの次の歌は、自らの行動に対して責任を取ろうとしない今日の多くの人々が侵されている『症候群』を絶妙に言い表しています。
精神科医のところへ行った  精神分析をしてもらうために
なぜ、猫を殺したかを解明するために  そして、なぜ、妻の目に隈をつくらせたかを。
医者は俺を柔らかいソファーに座らせた  何かを見つけようと
そして医者がさらい上げたことといったら  俺の潜在意識から:
俺が一つのとき、おふくろは隠した  俺の人形をトランクの中に
だから当然こうなるさ  いつも俺は酔っ払ってるのだ。
俺が二つのとき、俺は見た親父が  ある日女中とキスしているのを
だから今俺は苦しんでいるのだ  盗み癖で
俺が三つのとき、俺は苦しんだ  俺の兄弟への気持ちの矛盾で、
だから当然こうなるさ、  俺の恋人をみな毒殺した。
教訓を学んで嬉しいよ  教えられたことはね、
俺がやっている悪いことはみな  だれかさんのせいだってことよ。
しかし、こんな調子で私たちが自分に対して責任を取らないなら、絶望、失望のどん底から這い上ることのできる望みはほとんどないのです。
でもこんな風に考えることができたらどうでしょうと、セルインは提案します。「なるほど、人生はあまりにも残酷で、逆境の連続だったかもしれない。でも、私と同じような問題に直面してきた人たちの中にも、違った風に対応してきた人たちはいるのだ。それなら、私にだってできるはずだ。ひとつ私の人生にキリストを受け入れ、キリストの力で、私を傷つけてきたすべての人を赦し、『試み』を『証し』に、『困難』を『発見』に変えてみようではないか。」と。
私たちの人生に突然押し寄せる難題は、反応次第で良くも悪くも、楽しくも辛くもなるのです。このことは自分ひとりでは達成できることではありません。しかし、キリストによって強くされるならだれでも、神のご計画と栄光に向かって、立ちはだかるすべての問題、敵を克服していくことができるのです。

4.あなたを傷つけた人をすべて赦す

だれも恨みを担うことのできる人はいません。あまりにも代償が大きいからです。赦せない霊を心に抱いているかぎり、失望と絶望のどん底から這い出すことは期待できないのです。これは、キリストが、山上の垂訓で明らかにされた原則「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。」(マタイ6:14~15)です。あなた自身赦しを必要としているなら、そのように他人を赦すことです。他人を赦すことを拒むとしたら、神があなたを赦そうとされるのを妨げると同じことだからです。神は、赦さない者を赦してはくださらないのです。
この地上で宣言された最も道徳水準の高い声明といえば、「自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。」(ピリピ人2:4)でしょう。キリストがあなたを扱ってくださるように、お互いそのように他の人を扱うことが奨励されているのです。 怒るという感情を劣悪なこととは認めたがらないクリスチャンは案外多いのですが、なるほどもし怒りが正当化されるものであるなら、そのような感情を抱くのは合法的であるというように信じているからです。 しかしここで間違ったステップを踏んでしまったら取り返しのつかないことになってしまうので、これに関して誤解のないように言っておくと前置きして、セルインは、怒りという否定的感情の性質そのものではなく、そこから滲み出る毒を、「心の中の寄生虫」として警告しています。合法的かどうかはともかく、その邪悪な寄生虫は、怒りを引き起こす人の心の中にいるのではなく、それをもてなし暖める人の心の中にいるというのです。
自由と解放を味わうためには、怒りの感情と不正行為を徹底的に明るみに持ち出して、キリストの十字架に釘づけにし、全き者とされなければならないのです。

5.自己憐憫を避ける

感受性の強い、簡単に傷つきやすい人たちが、最も自己憐憫に陥りやすいということが分かっています。感受性とは同情してあげることのできる能力であって、この心の奥深いところを感じる能力が、実際には、他の人のために用いられるよう神が備えてくださったものであるということに気づくまでは、この能力が備えられた人はいつも愚痴っぽく惨めで、泣き言、不平を洩らしてばかりいる人という風に見られているかもしれません。
自己憐憫は、些細なことを大仰に、ちょっとした不都合を非常な災難にという具合に次第に大げさに感情を支配していきます。セルインは、男女を問わず自己憐憫にとりつかれた人を次のようにたとえています。 彼らは大変な身体の病に苦しむ人たちでごったがえした病院の病棟を通り過ぎるとき、どんなに苦しんでいる人たちを目のあたりにしても、相変わらず自分の軽い頭痛に愚痴をこぼしながら病院を後にすることのできる人であると。彼らの人生の生き方に共通した傾向は、思考においても情緒においても、人生観が全般に悲観的で、すべてが、それ一色に染まってしまっているということです。暑ければ寒いのがいい、寒ければ暑いのがいいという具合に、すべての出来事の悪い面を見つけるには早く、見つけることができないと、作り上げたりもしてしまうのです。
果たして、自己憐憫を克服することはできるのでしょうか。セルインによれば、情緒という言葉は、外への動きを示唆しており、したがって、憐憫は本来、他の人に向けられるべき憐れみの感情なのです。愛に飢え乾き、多くの人たちが憐れみを求めているこの世にあって、外に向けるべく備えられた憐れみが内側、すなわち自分に向けられ自己憐憫になってしまっているとしたら、私たちは間違った方向に導かれているということで、キリストに目を留め、キリストの例に倣っていないということになるので注意しなくてはならないのです。
自己憐憫を克服する秘訣は、神と、神の御子イエス・キリストに焦点の置かれた心にあるのです。王の王なる方に仕えることによって、あなたの感受性を他の人への同情と憐れみの心へと利他的に向けていくとき、だれか他の人の重荷のために人肌脱ぐことから溢れ出る喜びを味わうことになるでしょう。

6.心を鍛練する

さまざまな誤った信念が、怒り、罪悪感、不安といった否定的な感情の原因になるということは私たちが人生の中で体験していることです。人生についての間違った仮定は間違った感情を生み出し、さらに間違った行動を生み出します。 聖書は、効果的な人生の基盤が、正しい考え、信念、信仰にあることを繰り返し、繰り返し語っています。 使徒パウロは、「心の一新」によって人は変えられると言い、ローマ人12:1~2で、この世(間違った虚偽の体系)に妥協する道ではなく、心の一新によって言動が変えられる道を歩むようにと、懇願しているのです。このことが示唆している重要性をセルインは次のように指摘しています。
  1. 間違った虚偽の体系を信じること、すなわち、嘘を信じることは可能である
  2. 神が人に従ってほしいと思っておられる真の体系がある
  3. この地上で、神が人に生きてほしいと思っておられる人生を生きたいと思うなら、正しい思考体系を知る必要がある
パウロは次のようにも言っています。「そこで私は、主にあって言明し、おごそかに勧めます。もはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。彼らは、その知性において暗くなり、かれらのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れています。」(エペソ人4:17-18)。すなわち、間違った考えが間違った感情へと導かれ、間違った感情は間違った行動へと導かれるのです。
私たちがイエス・キリストの主権の下にあるなら、肉の性質によって私たちの中に生み出された心の設定に逆らい、神に従う、神の思いを思う人生を歩み出していくことができるのです。具体的にそのような歩みとは、たとえば、だれかに批判されたとしたら、その状況に関して語られた「神の言葉」に注意を払うように心がけていくことから始まるのです。すると神は御言葉を通して、この世の批判さえも含めて「すべてのことが共に益となる」ということを示してくださるでしょう。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画にしたがって召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。なぜなら、神はあらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。」(ローマ人8:28-29)から、私たちは、神が、私たちがもっと神の御子イエス・キリストのようになるように、良いことも悪いこともすべてのことを用いられるということを知っているので、どのような状態に置かれても、賛美(肯定的な感情)で答えることができ、神に栄光を帰し、主に仕える(正しい行動)ことができるのです。
神の原則に則った思いを心に抱くようにしようと決意するとき、新しい人生の次元が、私たちの前に開かれます。すると私たちは、周りの人々、環境、状況のすべてを、私たちの内にあるキリストの性質が成長していくのに欠かせない良い機会として受け入れることができるようになるでしょう。 残念ながら、全く反対に、周りの人々、環境、状況が脅威であり、重荷であると考えているクリスチャンがあまりにも多いのが現状です。しかしあなたは今、正しい思考体系を実践する決意をしてください。あなたの人生に約束されている神の恵みを十分に享受する者になってください。あなたは、自分で勝手に描いた虚像を自分であるなどと受け入れる者ではなく、あなたが思うことそのままがあなたの姿であるということを銘記してください!

7.あなたに起こるすべての状況を賛美で受け入れる

パウロが、第一テサロニケ5:18で語った「すべての事について、感謝しなさい。」に耳を傾けてください。 自分の置かれている環境がたとえ気に入らなくても、すべてのことがともに働いて究極的には、神を愛する者たちにとって益となる、という教えを信じ受け入れるなら、すべてのことを神に感謝することができるようになります。
この御言葉をどのように実践したかをある牧師が語りました。ある教会会議の席で彼は、反対する者たちに対し神に感謝することから始めました。すべてのことについて神に感謝するという聖書の声明を、人間の理解を超えて重要で基本的なことであると悟ったこの牧師は、この世の体験を神の視野から独創的に見る姿勢を採ることによって、意見の衝突を、教会のプログラムに妨害が入ったという捉え方ではなく、神を愛する者たちの人格形成、成長のために許されている継続的な過程として捉えることができたのでした。人生に勃発するすべての出来事、状況に神への賛美と感謝で応えていくとき、確かに私たちの霊は不愉快、不機嫌になることから守られ、人生を神の見地から見ていくことができるようになるのです。
詩編の著者は「私はあらゆる時に主をほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある。」(34:1)と言っています。悪いときも良いときも、落ち込んでいるときも高揚しているときも「あらゆる時に主をほめたたえる」と言っているのです。あなたの人生の歩みがどんなに困難であろうと、詩編の著者の忠告に従い、あなたの人生の日々を尽きることのない賛美で満たす、という決意をしてください。
もし今あなたの内に、「こんなにもたくさんの問題と困難が現実にも行く手にも立ち塞がっているのにどうして感謝できようか。感謝することなどひとつもない」という思いが上ってきたとしたら、セルインの指示に耳を傾けてください。 神の御前に汚れた罪人であるあなたが、どうしたら聖なる神の御前で受け入れられるだろうか、どうしたら少しでも長く神の御前で過ごすことができるだろうかということに思いを馳せてみてください。また、神が宇宙の真の創造者、所有者であるなら、この世が半狂人の人間が力を誇るための競技場であるはずがない(そのように考える者もいますが)という真実に思いを馳せてみてください。
神がこの地上に起こることのすべてをコントロールしておられるなら、神はだれかがあなたから、あなたの霊的な損失につながるようなものを何であろうと奪うことを、みすみすお許しにはならないでしょう。人生のあるときには、神がそれを許しておられるように見えるときがあるかも知れませんが、そのようなときにも神はいつもあなたとともにおられ、実際には神の御目的に従っていると思われることだけを許しておられるのです。神は、損失を獲得に変えてくださる方です。ですから、起こることが許されていることの中には、私たちが最初思ったよりはるかに多くの賛美することのできるものがあるのだということに、あなたの心の焦点を合わせるようにしてみてください。いつも、神を賛美してみてください。

いじめ

心の病いに苦しんでいる人たちに対し、間違った『認知パターン』を合理的に否定し、考え方を変えることによって否定的な感情を取り除き、間違った『行動パターン』を立て直していくと いう精神療法が一般医療機関で導入されてきているようですが、聖書的見解が反映されている治療法です。
心の中でいつも思っていることは、正しい、間違っているを問わず、あなたが人生をどのように認識し、どのように解釈しているかの表れで、あなたの信念として定着し、あなたの行動に反映されるのです。そこで、あなたが、あなたに起こる色々な問題に対してどのように考え、捉えているかを知ることはあなたの気持ち、行動を変える大きな助けになります。

疑問

いつもおとなしく控え目なAさん、直属の上司の心ない取り扱いに常々悩んでいました。事あるごとに公の場で、Aさんをひどく非難し、ささいなことを取り上げて叱り飛ばし、辱め、笑いものにする上司Bさんの態度には目に余るものがありました。
その日も、書棚に本を入れるため、社則の「脚立使用時には片方の手で 脚立を抑えて作業すること」に反して、抱えた多くの本が落ちないように、両手を本にかけていたAさんを目ざとく目撃したBさんの集中攻撃が始まったのです。
多くの人たちの前でまたもや罵倒され、さらしものになったAさん、ついに切れて しまいました。我慢に我慢を重ねて、いつも言われるまま引きさがっていたAさんもその日ばかりは自分の内に秘めていた怒り、積年を爆発させる以外、すべがなかったのです。
あとで、Aさんは大変な自責の念に駆られることになります。クリスチャンとして、聖書のみ言葉通り、人に迷惑をかけないように、また、人を傷つけたりすることがないように一生懸命生きてきたつもりなのに、このように非難の的になるということはやはり、自分が弱いため、自分の罪のため、自分に落ち度があるため、自分は非難され、いじめられてきたのだという、自己非難の思いばかりがこみ上げてくるのでした。Aさんの気持ちは暗くなるばかりでした。
果たして、Aさんが達した結論は正しいでしょうか?
Aさんが切れてしまったことは、おそらく仕方のなかったこと、そのときは我慢してもどこかできっと「切れ」なければならないことだったのでしょう。人間は怒り、恨み、憎しみ、うっぷん、不満を全く発散させることなく、心に閉じ込めて、生きることはできないのです。
人間関係は本当に難しく、中でも「いじめの問題」はどの時代にも、どの世代にも、どの国にも、どの分野にも、社会にも家庭内にも普遍的に巣くってきた、また、この世が続くかぎり解消されることのない人間の罪に根づく問題です。
一言でいえば、いじめる側、いじめられる側、どちらが悪いという問題ではなく、人間の罪の問題に帰結する、この世では完全な解決法のない複雑な問題です。
とはいえ、「いじめ」のメカニズムから次のことは指摘できます。いじめる者はひどくいじめられた経験があるか、あるいは、自分自身に劣等感があり、自分自身に 対するやり場のないうっぷん、不満を、だれか弱い者を見つけ、苦しめ、痛めつけることによって勝利感を得て、解消しようとするものであるということです。親の子への虐待なども同じ、罪ある人間の心の病から生じるものです。
どういった人が弱い者となるか、いじめの対象になるかは、いじめる人の価値観、好き嫌い、生い立ちなどによって差がありますから、一概には言えませんが、たとえば、かつて自分をいじめた人に似ているといったことだけでも攻撃の対象になるのです。 ですから、Aさんが、Bさんにとって恰好な餌食となってしまったのは、Aさんの問題というより、多分にBさんの側に要因があるようです。
理不尽な攻撃を受け、公の場で恥をかかされることが続くと、私たち人間の尊厳が失われ、自尊心がひどく傷つくので、とても相手(いじめる者)の側に立って理解しようという気にはならないし、そうしようと思う者はほとんどいないものですが、別の視点から物事を見てみようとする姿勢は問題解決のために必要です。
そこで、いじめる者の側に、そのような形でうっぷんを晴らさなければならないような大きな問題が必ずあるということを理解することができれば、おそらく、いじめられる側の反応も変わってくるのではないでしょうか。
いじめる側のほうが、いじめられる側より、はるかに心に平安がなく、自分の中に押し込めた大きな問題を抱えていることを知れば、少なくとも、恥をかかされた、いじめられたという外的な要因だけで、自分をみじめに思うような反応の仕方からは、解放されることになるのではないかと思います。
哀れな人を守ってくださる主は、弱り果てた私を救ってくださる。 私の魂よ、再び安らうがよい、主はお前に報いてくださる。
詩篇116:6-7(新共同訳)
Aさんの存在価値をだれよりも(Aさん自身よりも)よく知っておられ、愛しておられる創造者なる全知全能の神がAさんを愛し、「Aさんという世界でただひとりの貴重な存在」(聖書は、ちまたで信じられている「輪廻転生」、他人や他の生き物への生まれ変わりという概念をきっぱり否定している)を神の器、 主の証人と して用いてくださると聖書は約束しているのですから、Aさんは、他人がそのように評価したからといって、自分を卑下したり、嫌ったりする必要は毛頭なく、主イエス・キリストとの正しい関係に自信を持って、「キリストに愛されている者」として歩み続ければいいのです。
キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。 古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、 キリストを通してわたしたちをご自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。  
コリント人第二5:17-18
今回のことを通して、Aさんがもし、だれかをいじめることで自分の存在感、存在 価値を確かめなければ生きていけないような、そのような相手(いじめる者)の心の貧しさを思いやり、自分をいじめたBさんを赦すことのできる人へと成長することができれば、きっといつの日か、Bさん自身が罪の束縛から解放されて、変えられる日が来るのではないでしょうか。
その反対に、Aさんが決してBさんを赦すまいと心をかたくなにするなら、いつの日かAさん自身が、Cさんという自分より弱い立場にあると見定めた人を、自分がいじめられたようにいじめ返す危険性は十分にあるのです。
かつていじめられた「犠牲者」が、今度はいじめる「加害者」になるという、 改善されることなく繰り返されている人間史は、すべて、罪人である人間の所産なのです。
人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている。 正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである。
ミカ書6:8
敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。
ルカ6:27-28
自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。 自分の罪を公に言い表すなら、 神は真実で正しい方ですから、 罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。
ヨハネ第一1:8-9